「アダルトビデオ」という名称は、いつ頃から誰が命名し一般化するようになったのだろうか。
AV業界の三〇年余には、さまざまな変遷や栄枯盛衰があったと思うが、今日まで業界が継続できたのは、この「AV」という隠微さや卑猥さを感じさせないニュートラルなネーミングが少なからず影響していると思う。わたしが知る限り、当初は「ポルノビデオ」と呼ばれていた。
そもそもは、昭和四十六年(1971年)に倒産寸前だった日活が起死回生の策として、いわゆる「ロマンポルノ」の制作配給を開始したのだが、同時期に劇場用の本編とは別に、濡れ場をメインにしたホテル向けのビデオを販売した。このポルノビデオがAVの元祖だと思う。
東映の子会社がピンク映画のベッドシーンだけを再編集し、モーテルやラブホテルで百円投入すれば数分間見られるポルノビデオを販売していたが、先鞭をつけたのは日活だったと記憶する。
独立系のピンク映画、日活系のポルノ映画、そしてアダルトビデオに至るまで、わたしが十年余にわたって見聞きしたさまざまな個人的な出来事を回顧してみたいと思う。
わたしがピンク映画に興味をもったのは、六〇年代後半の学生時代に新宿歌舞伎町にあったピンク専門館の地球座で若松孝二監督の「犯された白衣」を観たのがきっかけだった。主演は状況劇場の主宰者・唐十郎である。
新宿騒乱前夜の頃で、アングラ文化が盛んな新宿の怪しげな芸術家やその卵たちが集まる喫茶店・風月堂で時間をつぶしながら、ニューウェーブの映画や演劇論で熱くなっていた。性表現の解放が人間性の解放と声高に謳われ、フリーセックスが時代の潮流であった。
その頃のわたしは、深夜スナック(今で言うディスコ、クラブの類い)で始発電車まで明かすか、風月堂かモダンジャズの店でグダグダと半日過ごすか、伊勢丹前にあった日活名画座や池袋の文芸座で映画の梯子をするか、そんな怠惰な毎日で、大学にも行かずフーテン暮らしをしていたのだが、たまたま噂に聞いたピンク映画がいかなるものかと、物見遊山で地球座に入って驚いた。深夜にも関わらず、劇場は超満員だったのである。
他の映画は想像通りのいかにも安直な映画だったが、若松作品だけは別格で異彩を放っていた。それから何本か若松映画を観た。権力や権威に対する怨念と情念に圧倒され言葉も出なかった。
風月堂の仲間にそのことを言うと、助監督だった友人から若松プロでスタッフを募集していると情報を聞き、その友人の紹介で原宿にあったセントラルアパートへ訪ねて行った。幸運にも撮影助手として採用され足立正生、若松孝二両監督の撮影に参加できたのである。
ロケ地は群馬県の四万温泉。早朝から過酷な撮影に右往左往しながら、若松監督の早撮りのスピードについていくのが精一杯だった。そんなとき、ロケ先の農家のテレビからアポロ11号が月面着陸に成功したニュースが流れ、いよいよ宇宙時代が到来する、と心弾んだことを鮮明に覚えている。昭和四十四年(1969年)の夏、二十一歳のときだった。
余談だが、若松プロを紹介してくれたその友人はフリーの助監督で、黒魔術と超能力に精通するユニークな奴だった。狙った女は必ず落とすと豪語する男だったが、ある事件に巻き込まれ二年半ほど服役後、同棲していた女性に腹部を刺されて死んだ不運な男だった。
しかしながら、この友人の紹介がなければ、わたしは映像の世界で生きていくことはなかったと思う。まさに人の生きざまは不確かであり、不条理なのかもしれない。
若松監督が松竹で「金瓶梅」という映画を撮ったとき、あるスタッフの一人に「国映」というピンクの映画会社を紹介され、いきなりチーフ助監督を経験した。体重が三キロも減るほど過酷な現場だった。これが堪らなく快感で、それからピンクの世界に二年間どっぷり浸かってしまう。
ピンク映画の監督は、前歴が教育映画やドロップアウトしたテレビの助監督など多種多様で、低予算と世間の差別と戦いながらも意欲的な映像づくりをしていた。時間とお金がないことを逆手に、好きな映画を撮っていたと思う。
キャストは主に大部屋にいた女優の転身組と、ヌードプロダクションのシロウト女優陣が主流だった。年間二百本前後のピンク映画を量産していた業界は慢性的な女優不足で、キャスティングでいつも苦労していた。
昨日まで喫茶店やスナックでアルバイトをしていた女のコが、いきなり映画の主役をやることも日常茶飯事。当然、現場は遅々として進まず修羅場となるが、台詞ができなければ泣き喚く芝居に変え、悶え顔は足をつねって苦悶の表情をつくり、動きがぎこちなければ走って裏芝居。棒読みの下手な台詞もベテラン女優がアフレコで誤魔化して辻褄を合わせる。さまざまな演出テクニックを覚えたのはこのときだった。
横綱大鵬が引退した年に、経営不振だった日活がいきなりポルノ映画の制作に路線を変更。ピンク業界は震撼とした。第一作はピンクの世界から日活に移籍した白川和子主演の「団地妻昼下がりの情事」だった。
ロマンポルノはすべてオールカラー作品で、三本立てのうち一本は低予算の「買い取り作品」が併映されていた。その買い取り作品を一手に制作していたのが「プリマ企画」という制作会社。ピンク映画の制作会社「ワールド映画」の営業部長だった藤村政治氏と渡辺輝男氏(後の代々木忠監督)が設立したプロダクションである。
設立第一作目が向井寛、二作目に梅沢薫が監督として抜擢され、梅沢監督の助監督としてわたしも参加することになる。
その当時、ピンク映画はモノクロで撮影し、ベッドシーンの場面だけカラーになるパートカラー(濡れ場になるといきなりパッとカラーになるのでパットカラー。座席で眠っていた観客がカラーになるとパッと目が覚めるのでパットカラーと揶揄した俗説もある)の時代で、通常オールカラー作品は、実績のある監督だけが撮れる正月映画やお盆映画の特別なときだけだった。
日活外注の買い取り作品でもフィルムはオールカラーで、予算もピンク映画の二倍近くはあった。
しかし、日活が買い取り作品に期待したのは低予算の制作費と濡れ場シーンを多用すること。つまり、老舗の映画会社のプライドとしてピンク映画ではない上質なロマンポルノは撮影所で制作し、観客の劣情が喚起されれば是とする買い取り作品は添え物として位置づけられていた。
日活の狙いは見事に的中。閑古鳥が鳴いていた劇場に連日観客が押し寄せ、マスコミが新しい日本映画の息吹に注目するようになる。
一方、ピンク畑から日活系列に移籍した監督やスタッフは、ピンク業界からは嫉妬と怨みの対象になってしまう。観客が激減したからだ。かつてお世話になったピンクの制作会社のプロデューサーから“裏切り者”という汚名を浴びせられ、悔しい思いをしたことがある。
ピンクも日活に対抗してオールカラーに変更。業界が一丸となって巻き返しを図ったが、ピンクで活躍していた宮下順子、白川和子など主演クラスが次々と日活に引き抜かれ、予算も従来の制作費にフィルムと現像料を上乗せしただけだったので、ロマンポルノに比べて見劣りがしたことは否めない。ピンクは観客動員数の回復はできなかった。
プリマ企画の助監督として半年ほど経った頃、予定していた梅沢監督が降りてしまった作品のピンチヒッターで監督に抜擢され、二十四歳で監督デビューすることになった。プロデューサー兼シナリオは渡辺輝男。後のAV界の巨匠代々木忠監督である。
渡辺氏のシナリオは通常の三分の一程度の分量しかなく、シノップシス(粗筋)だと思っていたところ、それがシナリオの全部だとわかり戸惑った。
内容はレズ関係の恋人が突然行方不明となり、その恋人を捜しながらさ迷う悲恋物語なのだが、ドラマの基本である起承転結がほとんどなく、主人公の恋慕の思いだけが際立つ内容だった。
どう考えても演出プランが思いつかない。梅沢監督が降板した理由はこういうことだったのか、と気づいたがあとの祭りだった。クランクインが間近に迫っても、どう料理していいかわからず焦っていた。監督になるチャンスは滅多にない、もし失敗しても一から出直せばいい、と覚悟を決めたのである。
結論的には、レズ相手との甘美な追憶と狂気じみた妄想の中で苦悶する主人公の姿を描こうと、ストーリーに関係ないイメージシーンを膨らませ、盛りだくさんに技巧的な美しい画面をつけ加えた。
さらに音楽は前衛風なものを選曲し、意味ありげなエフェクト(効果音)を多用してダビングした。完成した映画は奇妙なアングラ風のポルノ映画に仕上がった。
タイトルは「完全なる同性愛」。主演女優は後に渡辺氏と結婚した真湖道代である。映画の評価は芳しくなく、意欲的で中々よろしいと慰めのお言葉を頂戴したが、あえなく初映画はお蔵入り。第二作目に撮った「悲しき妖精」がデビュー作になった。
この二作目も渡辺氏の脚本で、ストリッパー嬢とチンピラのスカウトマンの悲恋物語。これは渡辺氏の若い頃の実話に基づくストーリーで、前作のようなアングラ風の映画ではなく、ドラマがしっかり描かれた映画になった。
幻のレズ映画はビデオ発売が先行したが、前後して劇場公開されたので、実質的にはお蔵入りにはならずに済んだのである。
不思議なもので、一度監督を経験してしまうと二度と助監督には戻りたくないという心理が働く。次のチャンスを狙って企画を考えたり、シナリオを書いたりしていたが、新人監督の報酬など多寡が知れている。すぐさま生活費が困窮し切迫してきた。
そんなとき、渡辺氏からシナリオの依頼を受けた。ポルノビデオ用の脚本である。原稿用紙二〇枚程度で、確か報酬は二万円だった。
プロデューサーの渡辺氏がなぜビデオの監督をするのか疑問に思い問い質したところ、濡れ場が全体の三分の二もあるビデオの監督を引き受ける人間がいないとのこと。止むを得ず自分が演出すると言った。
制作費は驚くほどの低予算。撮影で苦労するのは目に見えている。既存の監督たちにとってメリットがない仕事なのだ。どの監督も敬遠するだろうと思った。いま思えば、これが監督代々木忠誕生の瞬間だった。
駆け出しの新米監督にとって渡辺氏の依頼は有難い仕事だった。快くシナリオを引き受け、二作品を一週間くらいで書き上げた。
タイトルや内容はまったく覚えていないが、セックスシーンがなければ成り立たない構成で、あまり複雑な内容にはしなかったと記憶している。会話も心情も濡れ場の中に挿入し、できるだけベッドシーンを長く見せられるように工夫した。
このビデオが一年後、想像もしなかった事件に巻き込まれることになる。追い打ちをかけてもっと大きな事件が勃発した。いわゆる「日活ロマンポルノ裁判」である。
師匠の梅沢監督が「女高生芸者」というシャシンを撮ることになり、監督から助監督の依頼を受けた。正直言ってあまり気乗りがしなかった。もう助監督ではない、という自負心がそういう気持ちにさせたのだが、親分の頼みごとを断るわけにもいかず、久々に助監督をやることになった。
シナリオはコメディタッチの内容なので、濡れ場はあってもエロにはなりにくい。梅沢監督は不条理なアクションものか、骨太のドラマがもっとも得意とする監督なので、コメディは資質的に向いていない。
現場ではそれなりに頑張ったと思うが、案の定、ラッシュを観たプリマ企画の社長から撮り直しの指令が出た。要するに「もっとワイセツなエロシーンを撮れ」ということだった。後日、一日がかりでリテイクしたが、少しもワイセツ度は変わらなかった。むしろ滑稽さが増す結果になったと思う。
劇場公開してすぐ、「女高生芸者」と他3本が警視庁から「わいせつ図画陳列罪」で摘発された。わたしも参考人として警視庁から呼び出しを受け、撮影の経過や現場の状況などの詳細を聴取された。
取調べの刑事が、数枚の写真を示し「どうだ?ワイセツだろ」と、さまざまな濡れ場のシーンを抜粋した写真を見せられたのである。
その中のフンドシ姿の男が女に抱きついている写真を見て思わず吹き出してしまった。村の若い男が村長の娘を襲うという場面だったのだが、その赤フン男はわたしが扮していたのだ。
刑事はまさか目の前の助監督が演じたとはつゆ知らず、真面目くさった顔で「見てみろ、ワイセツだろ」と強要していたのをよく覚えている。もちろん刑事の思惑に乗ることなく拒否したが、ばかばかしい取調べは一日中続いた。
ところが数週間もしないうちに、徳島県警が「わいせつ図画販売」容疑で日活ポルノビデオを摘発したとの報道を見て驚いた。わたしが脚本を書いた例のポルノビデオだったからだ。再び参考人として警視庁に出向いた。なぜか前回取調べを受けた同じ刑事だったのである。
シナリオは“男と女が重なりXYZ”とか“熱く燃え上がる”とか、ワイセツな表現にはほど遠く、何のお咎めもなく事なく済んだのだが、その刑事から「ポルノなんかヤクザな仕事を辞めて、もっと真面目な仕事をやりなよ」と同情され、ご親切にも警察官になることを勧められた。
結局、参考人として前回と合わせて四度ほど警視庁に呼び出され、母親を心配させてしまったが、いまでは貴重な青春の思い出である。
起訴されてから九年後、ロマンポルノ裁判は高裁で無罪を勝ち取ったが、常にエロとワイセツを要求される側にとって、「無罪」は別な見方をすれば敗北である。苦労しながらワイセツ度を高める表現をしているのに、ワイセツじゃないと国から認定されてしまったのだ。
もっとも、被告側の論理は「ワイセツではない」と争っていたのだから、そもそも矛盾している。憲法で保障されている「表現の自由」で争うべきだったとは思うが、その当時はそのような認識はまだ薄かったと思う。
当時、ピンク映画やポルノ映画のベッドシーンは、女優も男優もガムテープやテーピングで作った三角形の前張りで局部を隠すのが一般的だった。
例外的に撮影中に前張りが剥がれて局部が丸出しになることもあったし、かぶれるのを嫌って前張りなしの女優もいた。ある女優ははじめから恥毛をきれいに剃って、割れ目だけバンドエイドを貼っていた猛者もいたが、セックスシーンは前張りがあるので擬似であり、演技であり、必然性のあるストーリーの一部であって、いたずらに性的羞恥心を煽る目的で制作されるものではないという認識だった。
つまり、ポルノ映画でも「ワイセツではない」と言い続けたのだ。ロマンポルノ裁判はそんな性表現の根幹に係わるような大事件だったのだが、無罪を勝ち取ったことによって、健全でワイセツではない映像になってしまった。
事件以降、日活は当局の摘発を恐れて自己規制してしまったのだ。
監督になった当初は、将来の見通しなどまるで読めない不安な日々を過ごしながら、当てのないシナリオを書いて過ごしていた。
出来上がった脚本をピンクの映画会社に売り込みに行くのだが、中々いい返事がもらえない。そんな時期はエロ系の出版社「東京三世社」でせっせと映画関係の紹介記事-や劇画の原作を書きながら生活費を稼いでいた。徐々に監督の依頼がくるようになったのは二年も過ぎた頃からだった。
裁判からしばらくして、渡辺氏はワタナベプロダクションを設立。その後アテナ映像に改称し、タレント業務とビデオ制作、日活の買い取り作品を制作していた。
監督も山本晋也や渡辺護が加わり、磐石な体制だったはずだったが、日活の経営が危機的な状況になり、その影響で資金繰りに苦労していたと聞く。
この頃は日本映画全体が低迷期だったが、わたしは無我夢中で映画を撮り続けた。忙しい年は年間十本以上の映画を撮った。社名が変わった「にっかつ」と数社のピンク映画を毎月追い立てられるように撮影していた。
その当時のピンク映画の平均的な制作費は二百七〇万~三百万円。撮影日数は四~五日。女優の出演料は一日二万円。男優は一万円。監督料は十五万円。もちろん監督や女優の知名度や実績によって金額は違うが、それほどの差はなかったと思う。
状況が一変したのは、八〇年代に入って家庭用のビデオデッキが普及するようになってからである。販促用にビデオに変換したピンク映画が利用され、にわかにビデオ作品が注目されるようになった。
VHSの販売台数が飛躍的に伸びたのは、このビデオが大いに貢献したと聞く。どのくらい貢献したかは定かではないが、大手電機会社の子会社がピンク映画を買いあさっていたという話は事実である。
さらにビニ本業界の人間が次々にビデオ業界へ参入し、ラブホテルやポルノショップが中心だったビデオも、レンタルビデオが産業として成り立つようになっていった。
昭和五十五年頃だったと記憶するが、「これからはビデオの時代だ。そのことで相談がある」とヤマザキと名乗る男から連絡があり、新宿の喫茶店に呼び出されたのである。
彼は輸入モノのビニ本と偽って日本にいる外国人女性のヌードを撮り、肝心の局部ははじめから印刷せず、ご丁寧に黒マジックで塗りつぶして販売していた出版社の社長だった。
なぜ山崎氏を知ったかと言えば、旧知のカメラマンを通じて、新宿二丁目にあったストリップ劇場に出ていた南米系の踊り子をビニ本のモデルとして紹介したことがあった。その劇場は撮影で何度か借りたことがあり、支配人とは酒を飲み交わすほどの仲で、顔パスでよく劇場に出入りしていた。
その山崎氏が作ったのが「宇宙企画」である。第一作と二作目は、わたしが山崎氏から依頼され制作した。
山崎氏の条件は、手あかのついた女優ではなく現役の女子大生を出演させ、きれいな映像と音楽で構成してほしいということだった。提示された請負制作費は一作品で二百五〇万円。女の子のギャラは二〇万円。ピンクやポルノ女優の五万円から比べれば破格の報酬だ。
内容は他愛もないものだった。原宿の街や某大学の構内でロケしたり、マンションでシャワーを浴びたりするシーンを重ねながら、女のコの日常生活や性体験をカメラに向かってフリートークで語りかけ、愛らしくオナニーをする。最後は満足そうにカメラに微笑んでジ・エンド。ちょっとエッチなイメージビデオのようなものだった。
しかし、最初はまったく内容が違うシナリオだったのだが、主演の女のコがしゃべる台詞は棒読み。まるで芝居ができない。何度やってもNGの連続だった。現場主任と二人で頭を抱えてしまい、撮影を続行するのは不可能と結論を出した。
ところが、山崎氏から「内容は一任するから撮影は続行せよ」と厳命されてしまう。仕方なくヤケクソで、急遽インタビュー形式の性告白ものに変更したのである。
二作目も同じような内容で、女のコはSMの性癖があり、嘘の性体験をまことしやかに告白し、最後はやるせなく真紅の縄を体に巻きつけ、オナニーしながら微笑んで終わる。
ビデオの画面を見つめる寂しい男と、画面の中の愛くるしい女のコがバーチャルな関係で結ばれ、覗き部屋的な相互の擬似セックスによって射精に導くという内容になった。言ってみれば「動くビニ本」を撮ったのである。
そのときは、ストーリーも男女の濡れ場シーンもないシロモノが、八千本も一万本も売れるとは夢にも思わなかった。当時はまだレンタルショップはなく、大人のオモチャ屋で売っていたと思うが、定価九八〇〇円を七賭けで卸してもかなりの金額が宇宙企画に入ったと思う。
苦肉の策から「元祖・素人生撮りシリーズ」を生み出す結果になってしまったのだが、この二作品のタイトルは覚えていない。残念ながらビデオパッケージも保有していない。
その一年後、同じ宇宙企画で「横山エミリー」のエロティックなイメージビデオを撮った。前作の貢献度を評価してくれたのか、上代の一割を取得できる印税方式の契約だったので、百万単位の印税が転がり込んだ。
八〇年代に入ってから、ビデオデッキの普及に反比例してポルノやピンク映画は、「生撮りAV」に圧倒され観客減少の一途を辿っていった。
セックスを添えもの料理とした映画と、セックスをメインディシュにしたアダルトビデオを並べたとき、客はどちらを美味しいと思って選んだのか。答えは明白だった。あえて言うなら歴史的必然ということかも知れない。
いくら映画的完成度を高めても、どう技巧を凝らしても、エロを求める観客にとって映画はどこか物足りない。要するにヌケない映像なのである。
当然の話だ。誰一人、他人がヌクために映画を撮っている監督などいなかったと思う。
自我の世界を表現する手段としてポルノ映画を撮る立場と、男の欲望を満たすことを目的とするポルノビデオは、本質的に違う世界だ。似て非なるものと考えた方がわかり易い。
その後、風俗ライターの伊藤裕作氏から群雄社(後の「VIPエンタープライズ」)を紹介され、三〇分作品を四本制作した。
現役ソープ嬢の私生活をドキュメンタリータッチに描いたものや、中村京子のレズものなどで、監督名は架空の名前にして出したと思う。
ビデオの利益を元手に、伊藤氏と共同で新宿に「雄プロダクション」(現ユープロビジョン)を設立した。会社設立を機にアテナ映像から離れ、「にっかつ」と直接契約ができるようになったのである。
独立系(ジョイパック、新東宝)、にっかつ系の成人映画とビデオ制作が柱となって稼働。さらにピンク映画のビデオ化権を取得し、「VIP」に販売を委託した。
作品群の中には、周防正行監督のデビュー作「変態家族・兄貴の嫁さん」や、山本晋也監督の谷ナオミの緊縛ものもあり、これまで濡れ場だけを抜粋してモーテルやラブホテルに流していたピンク映画だったが、作品として完全版を発売したのは雄プロがはじめてだったと思う。
取引先も「ジャパンビコッティ」「日本ビデオ映像」「ジャパンホームビデオ」「芳友舎」と少しずつ増えていった。
雄プロからは、広木隆一、石川欣、望月六郎、富岡忠文、吉本昌弘など若手の有能な人材が次々と育ち、経営的には順風満帆だった。
AVの隆盛によってピンク映画もポルノ映画も衰退していったのだが、フィールドは違ってはいたものの、AVと映画の現場のスタッフはかなり重複していた。その中から日本映画を担う優秀な人材が多く輩出したことを忘れてはならない。
彼らはエロもワイセツも関係なく、ただ映画づくりが好きだったと思うし、貧しく厳しい現場で鍛えられたからこそ逞しく育ったのかも知れない。
「アダルトビデオ」と呼ばれるようになった初期の頃は、まだ「擬似行為」が主流で、「本番」が当たり前のようになるのはかなり後になってからだ。
さすがに前張りは付けてなかったが、擬似か本番か、徐々にその境界線があいまいになったのはいつ頃からなのだろうか。
愛染恭子が主演した「白日夢」とか大島渚の「愛のコリーダ」のハードコアがマスコミを賑わし、話題になったことが導火線になったことは間違いないが、アダルト業界がすぐさま追随したとは思えない。
美形で巨乳の、しかも本番をやる女優など簡単にはいなかったし、多額の出演料を支払える会社もなかったと思う。
某メーカーに出演した誰々が本番をやったとか、相手役の男が勃たなかったので不発に終わったとか、さまざまな噂話が周辺で流れていたが、事実かどうかはわからない。その頃は各社が競って多種多様のビデオを作っており、ビデオ業界は隆盛を極めていた。
ビデオ作品の制作は映画に較べればシンプルである。内容次第だが三〇分のビデオ作品なら一日か二日の撮影で終了してしまう。
わたしが得意とした手法は、ドラマの設定を役者に話し、自由に動いてもらう。台詞は自然に出てくる言葉なら何をしゃべってもオーケー。カメラは役者の動きを手持ちで追いかけるだけ。
二〇分をワンカットで撮影し、カメラ映りが悪かった箇所だけを別サイズで撮り直す。さらにアングルやポジションを変えてその続きを撮影する。リハーサルにそれなりの時間がかかるが、本番撮りは一時間くらいで撮り終わる。
とくに密室劇とか女性を襲うシーンに有効な手法で、その臨場感はフィルムでは表現できない迫力があった。なにより制作費が安くて済んだ。
そんなビデオの特性を生かした傑作が誕生する。代々木忠監督の「オナニーシリーズ」である。
男が想像できないような女の性がストレートに描かれ、これまでの常識を覆すほどインパクトがあり大ヒットした。女の仮面が剥がれ、本性むき出しで悶え狂う女の痴態は、男の妄想を極限まで膨らませ、暴力的なエロパワーが竜巻のように観る側を巻き込んでいく、そんな作品だった。
アテナ映像で編集中の撮りテープを代々木監督に見せられたとき、自分には描けない世界だとショックを受けた覚えがある。なんと罪深く、とんでもない作品なのだろうと脱帽した覚えがある。
わが雄プロダクションは、他の制作会社とは違った制作方法をとっていた。同一企画のビデオを数本撮り、各々ビデオを完成させるが、再編集して一本の映画として成立させる方法である。映画はジョイパック(現ヒューマックス)に配給を委託し、ビデオ販売はジャパンホームに委託した。
一粒で二度おいしい方式なのだが、これらの作品がAVのカテゴリーに入るかどうかはわからない。
バブルの頃からだろうか、業界が徐々に過激路線になり、「本番」と「美形&巨乳タレント」が主流になってきた。それに伴って女優の出演料が一気に高騰したのである。わが社が自主制作できる状況ではなくなってしまった。
「にっかつ」も「ジョイパック」もAVの圧倒的な勢いから業績不振に陥り、成人映画からの撤退を余儀なくされた。経営の柱だった収入源が断たれ、わが社は窮地に追い込まれたのである。
熟慮の結果、わたしは成人映画とビデオ制作から撤退することを決意した。これまでのスタッフも断腸の思いで解散した。
映画が好きで二〇歳の頃から映画の世界で生きてきた。もう一度原点に立ち返って、おのれが目指す映画について考えるいい機会だと判断したからである。徐々にCMやテレビドラマ、一般映画の制作にシフトを変えていった。
その転機になったのは、筒井康隆原作の「ウィークエンド・シャッフル」を自主制作したことで、広告代理店やテレビ局のプロデューサーから仕事の依頼がくるようになったからだ。
さらに十年後の平成五年(1993年)には、深作欣二、若松孝二両監督を顧問に、映像スタッフを育成する「映像塾」を創設するに至った。
最近、ユープロや映像塾出身の監督やスタッフが、AVからVシネマ、映画、テレビまで横断的に活躍する噂や評判を聞く。彼らはわたしが理想とする映像づくりのあるべき姿を体現している。喜ばしい限りである。
本来、映像づくりは自由で創造的な行為。あらゆる映像表現に貴賎の上下も差別も規制もあってはならない、と考えるからだ。
思い返せば早いものである。「アダルトビデオ」が誕生してから三〇年も経ってしまった。ピンクとポルノ、そしてAVに係わったのは僅か十年余だったが、この原稿を書きながらさまざまなことが目に浮かぶ。
いまでこそプロダクションから魅力的な女優が紹介され、こともなげに過激な撮影が可能なのだろうが、四〇年前は出演する女優は少なく、歌舞伎町のポン引きに五千円払って映画に出る女のコを紹介してもらったことがある。まだ駆け出しの助監時代のときである。
待ち合わせの喫茶店でその手のプロの女性からケンモホロロに断られ、タクシー代をふんだくられて悔しい思いをした。紹介料とタクシー代は、泣く泣く自分の貧しい懐から負担した。
はじめて脱ぐ女優に二時間も泣かれて撮影ができないこともあったし、緊張のあまり失禁した新人女優もいた。いまから比べれば隔世の感がある。
裸になる。セックスをする。それを撮影する。普通のようなことだが、世の中は普通のことだとは思わない。
いったいワイセツとは何なのか?エロとは何なのか?正確な答えは誰も出せないだろう。人間にとって永遠のテーマなのかも知れない。
人が感受するエロスの世界は十人十色で一人ひとりが皆違う。脳の中の秘密の回路が複雑に交差し、摩訶不思議な世界をつくりだす。本人にも制御できないくらい高熱のマグマで、かつ厄介なものだ。そんな不可解な世界をよく仕事にしてきたと思う。
わたしは、アダルトビデオの社会的ポジションは決して小さくないと思っている。似非良識人は眉をひそめるかも知れないが、AVに意味や価値がなければ三〇年も長きにわたって継続できるはずがない。
これからどんな方向に進化するのかわからないが、AVは人間の赤裸なド真ん中を描くエンターテインメントだと思っている。
映画監督 中村幻児
中村幻児 先輩とは、新宿でよく飲んでおりました。
映画について熱い情熱がほとばしり、初期のメンバーは現業界でそうそうたるメンバーになっております。
令和となった今、社会の「漂白化」が進むとともに、日本の社会そのものが自分自身の手足を自ら縛る事で、昭和時代の我々は、より強い閉塞感に未来が暗いものに見えてきます。
飯島 愛さんという女優さんがいましたが、(つづく)
時折更新中 2024.1.11